松島パークホテルの回想

随時、いろんな方にパークホテルの回想を伺いました。
やはり、思ったとおり想い出がいっぱい詰まった建物だったことを確信しました。
松島のシンボルだったこの建物を復元すれば、まちがいなく全国的な話題になり、
松島の明治、大正、昭和の近代化の物語がクローズアップされることになるでしょう。


仙台の税理士で利府町在住の伊藤さん(男性)のお話
(編者:え、伊藤さんはパークホテルに入ったことがあるんですか?)
戦前、私は小学生だったころ、松島に親戚の家があったので、パークホテルの近くで遊んだことがあった。
パークホテルの敷地はきれいな芝生で、柵の外からパークホテルをのぞいてみた。
ベランダが高くなっていて、椅子とかテーブルが置かれ、数名の白人の宿泊客が椅子に座って談笑していた。
私が、白人をみたのはそれが初めてだった。国籍はわからないが当時はドイツ人が時々来ていたと思う。

戦時中は松島の親戚の家に疎開していたが、終戦直後、アメリカ軍の司令官がパークホテルを占有した。

昭和30年頃までは、パークホテル以外にも大きな旅館(観光ホテルや松島ホテル)も何軒かあったが
冬の期間は、旅館のほうは、だいたい休業にちかいので、取引先をもてなすのに、適当な場所が少なく、
そんな時はパークホテルのバーを利用した。そのころは若かったのでお相伴でついていった。
仙台だったら、「ブラザー軒」を利用することも多かった。
(編者:パークホテルでは何を飲んだんですか?)
さあ、もう覚えていないなあ。たぶん、ちょっとしたカクテルかウイスキーだったかも知れない。
(編者:玉突き台はそのころありましたか?)
さあ、どうだったか。そういえばなにかあったような気もするが。

あ、そうそう、昭和44年の火事よりずっと前の昭和15年ごろにもパークホテルが火事になったはずだ。
(編者:それは昭和14年8月に出来たニューパークホテルですね。)
そうだ。とても立派で大きいホテルだった。焼けたときは親戚が「あんな立派なホテルが焼けてもったいない」
といっていた。私はニューパークホテルの焼け跡も見に行った。あの火災は翌日の夕刊に大きく載ったはずだ。

昭和44年に焼けたパークホテルは、今残っていれば、記念すべき建物として保存対象になっていたと思う。
(編者:ありがとうございました。私もパークホテルに入ってみたかったですね。)


松島町松島海岸在住の大寺さん(女性)のお話
(編者:大寺さんのお宅にあるパークホテルの食器はどういう経緯で残っているんですか?)
私の父がパークホテルで長年働いてたんです。終戦で米軍が接収する前は、支配人は北村三郎という名前
だったと思いました。近くに下宿していて、父はずいぶん信頼されていた様です。北村さんが出かける時
ときは、よく、彼の飼い犬を私の家で預かったりしたもんね。
父の仕事は、パークホテルの庭園や建物全般の用務管理だったと思います。
長年パークホテルで勤めていたことで、そのころいただいた食器だと母がいっていた物が一つだけあって、
いまでも、家ではときどき大事に使っているのね。多分パークホテルの食器だと思うけど。

私のお姉さんもパークホテルに勤めてたのね。パークホテルの隣に出来たニューパークホテルのほうね。
火事のとき、姉が泣きながら家に飛び込んで「ホテルが焼けるー」と言ったのをはっきり覚えてますね。
地階から火が出たために逃げ場が無くなって、窓から飛び降りたりして従業員が何人か亡くなったんだよね。

パークホテルに働きに来ていた女の人達の中で、地元の松島の人と結婚した人は何人かいるはずだね。
私の姉はその後、公園管理事務所の人と結婚し、今は九州に住んでるけれど年とってしまったね。

アメリカ軍が来た際に、このへんの大きな建物はみな物色され、天鱗院まで米兵が入って行ったけど、
そこはお寺なので、あきらめて、大きなホテルが接収されたって言ってたね。
パークホテルでは、戦前から働いていた従業員が集められ、父もまた、そこで働く事になったんだね。

(編者:松島ホテルは、米兵の火の不始末で焼けたんですか?)
松島ホテル(先年、解体されたRC造りの松島ホテルの一代前)のほうは、米軍が傍に積み上げていたガソリン
の入ったドラム缶にタバコを落とし、ものすごい火災になって、全焼したと聞いているけど。

アメリカ兵は大勢でこのへんを毎日行き来していたね。ガムやチョコレートをもらえるというので、
私も近所の子供と一緒に、Give me chocorate! をやったっけね。そしたら、自警団の人がきて、
「アメリカ兵は危ないからあっちにいきなさい。」と追っ払われたこともあったよね。
(編者:ありがとうございました。興味深いエピソードがたくさんありますね、また教えてください。)


松島町の松谷さん(男性:松島町の高城少年野球チーム親の会会長の話)
パークホテルはよく覚えてますよ。家が近くにあるので、パークホテルの庭は近所の子供達の遊び場だったんですよ。
庭を走り回ったり、玄関から中に入ったり階段を上ったりしてよく遊んだ記憶があります。
だんだん遊びもエスカレートしてきたので、最初は大目にみていてくれたホテルの守衛に追っかけられてこともありました。
火事のときは鮮烈に覚えています。
火事の時は最初はなんとか消し止められたんですが、火が残っていて大きく燃え上がり、消防車が遠くからも集められて
大変な騒ぎになりました。あのホテルがなくなったのは本当にもったいないですね


松島町の新田さん(女性:プチホテルびすとろアバロン経営者)

よくあのホテルには行きましたね。とてもカラフルな色使いをしたしゃれたホテルでした。
誰かが来て食事をしようとした場合、その頃の松島ではレストランといえばパークホテルでした。
(編者:どんなものを注文したのですか。味はどうでしたか。)
そうねえ、サンドイッチとかハヤシライスなんかは覚えています。味はとてもおいしかったですよ。
サンドイッチは最近のホテルで出すのと同じようですが、野菜はレタスではなくサラダ菜でしっかりした味でした。
昔は、食事といえば「家庭の味」がほとんどで、外食はあまりしなかったので、よけいおいしく感じたのかもしれません。
パークホテルで働いていた方でA精肉店のおばあさんがその頃のメニューを持っています。
昭和30年代のパークホテルのメニュー(昭和36年頃)
松島のシンボルだったあのホテルが再現できれば、松島もお客さんがいっぱい来ると思うんですけどねえ。
プチホテルびすとろアバロン


2003年1月28日の河北新報夕刊の特集記事「街いま」掲載されてからの情報
記事の全文

多賀城市の川崎さん(男性)
当時の町長は伊藤さんだったが、そのころ警察署長だったのでいろんな事件に出遭った。
松島パークホテルでも殺人事件があり、検察丁にその実況検分の文書が残っているはずだな。
松島で起こったいろいろな事件を実際に担当したもんだよ。
当時の支配人や公園事務所の方もおられるのでいろいろ情報は得られるはずだ。
再建の話はいいことだ。がんばりなさい。

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仙台市区の加藤さん(男性)

(編者:先日、新聞を見たという匿名の方から、加藤さんの先代の方が棟梁だったことをうかがいました。)
はい、先代の加藤茂吉が棟梁でした。
ずいぶん前に亡くなった私の父がニューパークホテルの施工を担当しました。
三百人町にあった遠藤工務店で棟梁として働いていたようです。
建築の際は、尋常小学校高等科1年(小学校6年に相当)私は父に言いつけられて、仙台から、図面を運んだり、
大工さん達の給料を飯場まで運んだりしました。いわゆる使いっぱしりをさせられました。(笑)
父に連れられて、一度、工事中の内部を見せられました。大変大きな建物という印象がおぼろげながらあります。
父も亡くなり、引越しの時に整理したので、昔の書類は写真は多分残っていないと思います。
(編者:貴重なお話です。書類や写真がないのは残念ですね。もし何か残っていましたら教えてください。)

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仙台市の加藤さん(女性)
新聞で松島パークホテルの記事を見ましたが、それは戦前に焼けてなくなったと思ってました。
(編者:なるほど、それは松島パークホテルの後に立てられたニューパークホテルですね。)
そうですか、35年ほど前に無くなった私の主人がそのニューパークホテルの棟梁の弟で一緒に仕事をしました。
(編者:あ、そのときの棟梁だった方のご親族ですね。確か棟梁は加藤茂吉さんという方と聞きましたが。)
はいそうです。お兄さんが加藤茂吉です。私の主人はその弟の加藤吉久雄です。
(編者:はー、そうなんですか、実は先日、加藤茂吉さんの息子さんと電話で会話しました。)
加藤吉久雄は、そのころは30歳くらいでした。勤め先はたしか「木田組」です。
(編者:加藤茂吉さんは遠藤工務店勤務との話でしたが。)
遠藤工務店と木田組との関係があったのかどうかは、よくわかりませんけれど。
そのホテルは13年に建って(最終的な竣工・開業は14年)そのあとすぐにすぐに焼けてしまいました。
写真が何枚かあり、ホテルの全景は写っていないが、玄関先で大工達が写っている写真がありますよ。
(編者:ぜひ、いつか拝見させてください。)

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仙台市の藤本さん(女性)
現在は仙台にすんでいますが、もともと盛岡出身で、火事になる前年の夏に、中学の同級生3人で泊まりにいきました。
塔屋の最上階の部屋でもともとベッドは2つだったので、エキストラベッドをなんとか入れてもらいました。
フロント係やボーイさんたちに大変親切に対応してもらい、初めてのホテル体験の良い思い出になりました。
とってもゴージャスな気分で、女の子も安心して泊まれる品のあるホテルでした。
後年、思い出の場所を尋ねたら、取り壊されていたので、ショックを受けました。
再建されたらどんなにか素敵なことだろうと思います。

松島パークホテル 想い出の夏
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仙台の小林さん(男性)の手紙(スライド同封)

前略
昨日の夕刊で皆様の活動を知りました。
松島パークホテルは小学生の修学旅行での記憶で
きれいな建物のイメージが残っておりました。
同封のスライドは息子の仕事でどんないきさつで
我が家にあったか不明ですが、ともかく皆様のお役に
立つならとお送りする次第です。
益々のご活躍をお祈りいたし失礼します。
                   敬具
発見されたパークホテルのカラー写真
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仙台の大内さん(男性)

ところで、1月22日付河北新報夕刊の
「街いま」を読みました。
松島パークホテルと聞いて、自分が
小学生のころ、火災で炎上するホテル
の姿を思い出しました。しかも、私が見た
のは、火災の翌日、再度火の手が上がった
時のことです。

松島海岸にあった塾の帰り道、パチパチという
音がして、焼け残ったホテルを見上げると、何と
また炎が上がっていたのです。完全に鎮火して
いなかったのですね。
周囲はもう暗かったので、遅い時間だったと
思います。ホテルの脇の歩道を歩きながら、友人と
「大変だ。119番に電話しなくちゃ」と電話ボックス
を探していると、松島海岸駅前で、トラックの運転手が
既に消防署に通報していたのを覚えています。

松島海岸駅のホームに下りの電車が入ってくると、
大きくなった炎に乗客が驚いて皆窓際に集まって
いました。あの時の燃え上がるパークホテルの姿
は忘れられません。

パークホテルが復元できたら、素晴らしいですね。
私も微力ながらお力になれればと思いました。

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仙台市の高橋さん(女性)

新聞で見たパークホテルは私が記憶しているものとは違う建物だったような気がします。
たしか、戦争前に焼けたと思っていましたが。
(編者:ああ、それは松島パークホテルの後に隣に立てられたニューパークホテルですよ。)
そうですか、私の知っているほうはひさしの屋根が上向きにそっていて、中国風の雰囲気もありました。
ニューパークホテルの会館記念の時にもらった、景品のペーパーナイフを持っています。
こんなものでよければ、お貸しできますよ。なんかのお役に立てればいいですね
(編者:おおそうですか、ぜひ、いつか拝見させていただきます。)

ニューパークホテル全景

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松島町の武山さん(男性:前々松島町長)からいただいたメモ

大変立派な構想です。
建設実現されるまでに考慮される事は、
建設費用確保
建設場所(県有地であれば許可)
建設後の維持管理
(文化財保護関係の認可等々充分心して進められる事。)

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松戸市の及川喜世隆さんからいただいた手紙と画像データ

お母さんが戦時中、海軍の会議所として使用されていた頃、勤務していたとの事。
お父さんはもと、刑事でパークホテル殺人事件の事件調査に参加していたとの事。
海軍工廠第3会議所だった頃

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多賀城市の和田晃さんからいただいた画像データの一部

和田さんはなんと、パークホテルで生まれた人である。当時お父さんが支配人、お母さんも勤務、我が家同然だった。
珍しい写真がたくさん出てきた。2003年9月の「懐古展」で一挙公開予定。
パークホテルは我が家だった。


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