松島パークホテルは我が家だった

多賀城市にお住まいの元銀行員の和田晃さんよりお寄せいただいた新事実

(訂正:以前、掲載した内容の一部が異なっていたため、2005年1月15日に訂正しました。)
私はパークホテルで生まれました。そのとき私の父親はパークホテルの支配人をしていました。
私の父の和田光夫は、アメリカで6年間ホテルで修行し、帰国後、丸ノ内会館に職を得ました。
精養軒の社長だった五百木竹四郎氏 が精養軒を退職し、その際に、丸ノ内会館や仙台精養軒と付随する松島パークホテル などの経営権を譲り受けたため、昭和6年4月に松島パークホテルに赴任することになりました。

私が生まれたのは翌年の昭和7年1月ですが、その当時、冬季はパークホテルは営業を休止しており、管理のために
支配人だった父は家族ぐるみで松島パークホテルに宿直していたからです。
地階(実際には1階に相当)にあった和室(従業員室)で私が生まれました。
母、鈴子の出産については、当時の事なので、多分、産婆さんが呼ばれたことと思います。

父は若い頃アメリカでホテル修行をしたこともあったためか、衛生管理にとても気を使っていたということです。
昔の赤ん坊のおむつは、通常は古着から作った ものでしたが、私の場合は特別に新しい白いおむつが用意され、自宅となっていた (旧)公園管理事務所の庭には 晴れた日になると、白いおむつがずらりと干されて、その眺めが見事だと当時話題になったということを聞いています 。幼い時代、私にとってはパークホテルが我が家のような存在でした。

昭和10年に一家は仙台に移りました。後任は、北村三郎さんという紳士でした。
北村さんは、単身赴任でニューパークホテルの支配人もしました。

パークホテルの横に建てられたニュー・パークホテルが火災にあった日、自宅にはまだ電話がないため、タクシーで松島から仙台までホテルのほうから知らせが来ました が、父は親戚の葬儀に出席するため日立に出かけていて不在でした。
知らせに来た方がやむなく、松島に戻ったその時、目にしたのは、ニューパークホテルの塔が崩れ落ちるところでした。

戦争に突入すると父は軍の要請によりジャワ東部のマランのスプレンディドホテルに勤務することになり、長い間家族と
離れて生活しました。父は外国語を覚えるのが速くインドネシア語で新任の挨拶をし現地スタッフを感心させたそうです。
戦後、パークホテルは米軍に接収され、五百木さんの息子の貞三郎さんが住み込みで米軍の世話をすることになりました。
一方、父はジャワで捕虜になりましたが、現地のスタッフに慕われていたため差し入れもあり、あまり苦労せずにすみました。 シンガポールに移送されてからはきびしい日々が続きましたが、無事に日本のわれわれ家族の元に帰ることができました。

父は南町通りでホテル銀座というホテルを経営しましたが、昭和30年に火事で焼けその後は食料品店を開き暮らしました。 父と母は明るく楽しい人で、家では笑いが絶えたことはありませんでした。


昭和6年4月の雪両親とともにホテルのスタッフとともにテラスの籐椅子の上で
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和田光夫支配人が赴任した昭和6年4月の頃の気象記録簿(気象庁仙台管区気象台提供)

両親の思い出を語る和田晃さんと奥様(2003年3月28日撮影)


2003年4月3日の河北新報夕刊の特事「街いま」

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