マーク・ゲイン著 ニッポン日記より

12月22日 仙台
 午前6時だというのに若いボーイに起こされた。彼は寝台
の中では煙草を喫ってはいけないと注意してくれた、そこ
で、私は熟睡中喫煙する習癖はもち合わせていないと答える
と、彼は無造作に、
「どうぞ煙草をください」といった。
 この担当直入ぶりに驚嘆して、私は怒るのも忘れて煙草
をやった。しかし、もう一度眠るには寒すぎた。
 最初に止まった駅でプラットフォームに下りてみた。地
面は雪に深くおおわれて、寒風が頬に痛かった。連合国軍
用の2車両のほかに、この列車には特権階級の日本人のた
めに固い座席の2等車が1輌、非特権階級の日本人のため
に損耗しきった3等車の長い列が連結されていた。どの車
輌にも最後の1インチまで人がつめこまれていた。プラッ
トフォームの人たちは、破れた窓からもっと荷物や子供を
つめこもうとし、また無言のまま、しかし決死の勢いで列
車のステップにわずかな足がかりでも獲ようと争っていた。

そのわずかな足がかりさえも獲られなかった人たちが、プ
ラットフォームに幾重にも列をなし、新しく来た人たちが、
その列をかきわけて前に出ようとするたびに、列は大きく
ゆれ動いた。駅の建物も爆撃でひどくやられていた。薄暗
くしかも風は吹き通しだったが、黒山のような人がその中
で次の、またはその次の列車をまちわびていた。埃だらけ
の床の上に眠っている人もあったが、群衆はちぢこまって
寝ている人たちの身体の上をのりこえて行った。

 仙台には2時間遅着した。ドーン准将が私たちの電報を
受け取らなかったにちがいないが、駅には誰も迎えに来て
いなかった。そこで、米軍のトラックに便乗して旧日本海
軍の兵器廠の建物にある司令部に行った。ドーンはちょう
ど検閲中でいなかったので、中に入って参謀長と話しなが
ら待っていた。
 しばらくしてようやく帰ってきたが、今まであった軍人
の中でもひときわ印象的な軍人だ。彼は陸軍に26年間
いるが、35歳以上とはどうしても受け取れない。顔付
は鋭く、引き締った身体つきをしている。態度はすこぶる
なごやかだ。彼に逢うのはこれが始めてだが、彼のことは
彼がビルマ戦線にいたころから聞き及んでいた。そのころ
彼はジョゼフ・スティルウェル将軍の「白髪の青年たち」
の一人だった。中国にいたことのある米軍将校中のもっと
も知性のある人の一人というのが、彼の定評である。
 ドーンとロバート・スウル准将と一緒に昼飯を食べた。
スウルはこの地区の軍政部長で、荒っぽい動作と巧妙な話
術をもった職業軍人である。昼飯を食べたところはもとの
日本海軍のクラブで、−−メチャクチャに丁寧なお辞儀ば
かりする日本人の女給仕がべらぼうに大勢いる気持のいい
建物だった。ここにちょっとでもいれば誰が勝者だったか
をアメリカ人も日本人も心から知っていることがすぐ判る。
われわれは日本の軍人が占領中の中国でやったような尊大
な振舞いを、けっしてやっているわけではないが、それで
も、この日本人の丁重な態度に対するアメリカ人の態度に
は何か冷たい人情に欠けた固さや露骨な不遜さがあった。

 午後、スウルが軍政部へつれて行ってくれた。軍政部の
首脳将校たちに逢って、食料問題や淫売宿や地下組織やキ
ャベツと王様(不思議の国のアリスに出てくる話)など、
あらゆる話題を話し合った。

 理論上は宮城県は他の県よりも楽なはずである。必要な
米は県内でとれるし、漁獲高は全国第3位である。が、実
情はこの春には飢餓状態におちいるおそれがあり、軍政部
は起りうべき暴動にそなえて大いに緊張している。田舎の
食料事情はもちろん都会よりもよい。しかしこの県では、
自分の耕す土地を所有している農民は5人の中の1人にす
ぎない。残りの4人は、その耕す土地の全部または一部を
借りている。闇全盛の今日、小作人たちは、空腹の勤め人
たちが持ってくる着物やいろいろな道具と米や大根を交換
しておそろしく裕福になった。「おそろしく裕福になった」
といっても、もちろんわれわれの尺度には全然当てはまら
ない。小作人たちは依然として細民である。
 しかし困窮のもっとも深刻なのは都会地である。スウル
は地方新聞からの翻訳を一束見せてくれた。その代表的な
投書の一つ。
「私は20年の役人生活をおくった。しかも私の給与の全
額は付140円(9ドル)である。私はこれで7人の家族
を養わなければならない。私は明日の食料のことを考える
と仕事も手につかない。ちっぽけないわし1尾に70銭
(5セント)、いか一杯に3円50銭を払わされていること
を政府はいったい知っているのか」

 軍政部の悲観的な報告はこう要約している。
「中産階級はいまや解体しつつある。困窮官吏たちと結合
する都市プロレタリヤ蜂起の指導者は、ここ数ヶ月中にこ
うした事情から生まれ出るであろう。」
 が、今までのところまだ統一された地下組織はない。ア
メリカ軍の現在見出しうるものは、小さな国家主義団体の
2、3と、−−地下組織が成長しうる温床となるべき広汎
な窮乏とだけである。夜になるとGIたちと友愛を結ぶ女
たちに警告を与えるポスターが方々の塀や壁にはられる。
−−"日本女性の衿持を保て"

 夕方近くスウルはドーンと共同で住んでいる家へ私たち
を連れて行ってくれた。この2人の将軍は廃墟と化した仙
台の市内に住居を構えているのではなく、日本の名勝地の
一つの避暑地松島にあるホテルを徴用して住んでいる。そ
のホテルまでの25マイルのドライヴは車輪の横滑りと
絶景の連続だった。山裾をめぐる雪におおわれたせまい道、
ふしくれだった松の木、ときどき姿を現すスキーヤー、
漁をする漁船、小さな丘の陰からとびたつ鴨、ま新しい鹿
の足跡。ホテルはこの2人の将官のために新たに装飾し直
され、塗り直されていた。中は温かくうまそうな匂いが漂
い給仕たちも大勢いた。日本人のコック長は輝くばかり真
白な帽子を冠っていた。私は専用の一室をあてがわれたが、
フランス式のドア越しには素晴らしい山景色が眺められる。
一隅には古風な洋服箪笥がおかれ、大理石の洗面台がつく
りつけられていた。熱い湯がでるのでシャワーを浴びて凍
えた身体を暖ため、ヒゲを剃り、晩餐のためにきれいなシ
ャツに着かえた。
 食事は素晴しかったし、食事中の会話も愉快だった。東
京では流言であり幻影であったものがここでは断固たる実
在である。食卓を取り囲んだ十数名の人たちは、とくに激
しい語調で語るのではなかった。それはちょうど、医者が
望みのない癌の患者の病状を語るときのような調子だった。
彼らによると、日本人はあらゆる機会をとらえて指令の実
行をサボタージュする。上からの窮屈な命令に縛られてい
る各地区担当の米軍司令官たちは、何の結果ももたらさな
い報告書を提出する以外には何もできない。
 特高警察関係の役人や、明白に戦争犯罪人と目される警
察の長はすべて解職するよう、特別の指令が発せられてい
る。隣県の山形県では、5人の特高警察の幹部が解職され
た。しばらくしてその5人の所在が発見されたときは、み
んな警察の幹部級の地位についているのだった。しかも、
ドーンさえその5人をほうり出す権限は与えられていない。
本州の北端の青森県では、米軍司令部から警察の幹部6人
に対して抗議が発せられたので、この6人は即座に退職を
命じられた。ところが、程なく軍政部は、そのうち3人が
他の町の警察に復職しているのを発見した。
 地方にある米軍司令官の権限に対する制限は実際あらゆ
る分野にわたっている。たとえば部下に病毒を感染させつ
つある妓楼の閉鎖すら司令官自身の権限では命じえないの
だそうだ。できることは、その建物をオフ・リミッツにす
るか、日本の警察にその閉鎖を要請するかの2つだけであ
る。スウルの副官が、仙台市内の連隊の兵舎の真向いで最
近、開業したダンスホールの話をしてくれた。
「そいつらがやって来て、アメリカの兵隊たちのために大
きなダンスホールを開くから許可をくれというんです。そ
こで私たちは、『淫売婦さえおかなければ』と言ってやり
ました。『もちろん、淫売などは。何もかも上品にやりま
すよ』とそいつらは受け合いました。そこで、やつらは仕
事にとりかかり、仙台再建に必要な材木や煉瓦を横から買
い上げ、家具を買い、湯を沸かす材料を買い込みました。
さてそのダンスホールがいよいよ正式に開業しようという
直前に、私たちは部隊内に新しい性病患者を発見したんで
す。その兵隊たちはそのダンスホールの女のところへ行っ
たのだというので、スウル准将は即座にそのホールを オ
フ・リミッツにしました。そころがそれからが大騒ぎです。
日本人の一大行列がおしかけてくるという始末なんです。
−−ホールの持主、仙台市長、警察署長、そいつらが口々
にホールの持主の立場を訴えるんです。−−その持主は全
財産をそのホールに投げ込み、127人の−−この数を
よく覚えておいてください。−−女給仕とダンサーを仙台に
つれて来た、この美人たちから仕事を奪ってほうり出して
おくのはひどいと思わないか、とこういうんです。が、ス
ウル准将は頑としてきかないのでホールはとうとう閉鎖さ
れました。家を失った9百人からの仙台市民がそのホール
に住むことになり、みんな大喜びです。
「このあいだ、ある日本人がやって来て、ここと仙台との
ちょうど真中辺にある塩釜で将校用のクラブを開きたいと
言って来ました。『よかろう、ダンスホールなら。そして
2階にベッドルームの設備さえしなければ』と承知してや
りました。その後、塩釜を通ったとき、そのクラブの支配
人にあったので、女の子は何人いるのかときいたら、彼は
得意げに答えました。『127人です。』」
もちろん、ここにいる将軍たちが悪いのでもなければ、
また第8軍司令官のアイケルバーガー中将が悪いわけでも
ない。間違いは、−−もし間違いだとすれば−−既存の日
本政府を通じて事を行なおうとするわれわれの政策にある
わけだ。東京と同様に、ここ仙台でもわれわれは日本に期
待する広い航路の海図をつくってやるに留まり、船の運転
は日本人自身に任せている。アメリカの観測者たちには、
船を運転しているのは主として昔のギャングどもで、進路
からはおそろしくはずれている、ということを報告するこ
としか許されていない。観測者自らの意思にもとづいては
何一つすることもできないのだ。
 日本の政府を通じてやっている今のやり方がよかったの
か、それとも腐りきった日本政府の全機構をひっくり返し
てしまって、アメリカ自身の軍政機関を通じてやったほう
がよかったのかという議論は、おそらく今後何十年もたた
かわれることと思う。私が今までに逢った軍政関係の人た
ちを見ても、この人たちがかくも複雑な性格をもつ日本国
民をうまく動かしてゆけるかどうかは、私には確信が持て
ない。が、一方また私は、革命的な変革を極端に嫌って血
みどろになって反対している連中を通じて、当のその革命
的な変革をやろうという智恵にもはなはだ疑問をもつ。ま
あきみが金を払うんだから−−ことにきみがアメリカの納
税者なら−−きみがどっちかにきめりゃいいんだ。

 しかし権力に慣らされた人々に対して、権力なしにやっ
てゆくには、いろいろ奇妙な工夫が行なわれている。私の
きくところでは、日本にいるアメリカの将校は誰も彼も目
的を達するためにやむなく近道をとっている。日本の南部
のある都市では、その市役所の一幹部が道路を清潔にしろ
という要求をいつまでも無視しつづけた。そこで、ある日
彼は軍政部の前に連れて来られて、箒を渡され掃除をする
ように申渡された。またある県では、ある将官の住宅にあ
てるために荒廃した家屋の修理を命じられた知事がいっこ
うその命令を実行しないので、その知事はその家屋に呼び
つけられ、その家屋が清掃され塗り代えられるまでそこに
いるよう命じられた。どちらの場合も目的は達せられた。
道路は清潔になり、家屋は塗り直された。
 しかし、一般の日本人たちはまだ征服者たちが権力をも
っていないことに気づいていないらしい。というよりは、
軍服を着た者には絶対服従するという彼らの修正からアメ
リカ軍と議論するのを極力避けている、といったほうが当
っているかもしれない。そして、われわれの命令や改革を
妨害しつづけるのにはまわり途だとか遷延だとか遁辞だと
かいう方法を用いる。
 しかし、法律の枠の外でやらなければならないという必
要は、アメリカ人にも日本人にも悲しむべき影響を与えて
いる。アメリカ人たちは冷評家に化する。命令の範囲を超
えてやらなければならないということは、軍規の上にも士
気の上にもいい影響は与えていない。民主主義の利益と喜
びをわれわれの実例を通じてわれわれが教え込まなければ
ならない日本人は、それどころか日本の軍部もアメリカの
軍部も根本的には変わりはないと感じる。

12月23日
 今朝、宮城県知事は私たちを県庁で待ち受けるようにと
の絶対命令を通達された。彼は広い知事室で十数人の部下
に取り巻かれて私たちを待ち受けていた。その部屋は薄暗
く寒かった。そして丁重な敵意が漂っていた。知事はかつ
てプリンストン大学に留学したといったが、私たちの知り
えたところでは、彼は英語を一つも覚えていなかった。
 秘書の助けをかりて、彼はいろいろな困難を列挙した。
米の収穫は1943年度に比してその3分の1以下だった
のに、人口は東京かたの20万の疎開者で逆に膨張してい
ること。県は、いまそれとほぼ同数の復員者の帰郷をおっ
かなびっくり待ち受けていること。すでに復員した者たち
は、闇市商売やゆすりを常習をしていること。
 知事は火鉢の中の小っぽけな火をみつけながらしゃべる。
「日本にとってはまったく困難な時期です。配線は国民の
心を破ってしまった。国民の志操はまったく低下し創意と
いうものもなくなった。私たちは復興を急ごうとしている。
しかし戦時中からの繁文縟礼がわれわれの両手を縛り上げ
ている。工場一つ開設するのに中央の許可を得るまでに4
ヶ月もかかるという始末で、まったく手の下しようがない。
そして今後の見透しは、悪化あるのみです。」
 知事は、失望と敗戦の悲しみを背負った真面目な男だが、
その職にもまったく不適当な男だ。この県の住民の十人の
うち9人までは農民である。しかも、知事をはじめ彼の部
下の一人も農民たちはいったいどんな税金を払っているの
か、またいくら払っているのかという私の質問に一言も答
えることができなかった。知事は仙台市内に住んでいる。
そこで市内の悲惨事やいろいろな問題にまったく心を奪わ
れてしまって、仙台の市域外で起る出来事は彼にとっては
遠い国のことでしかありえない。
 ところで、知事はもう一つ決定的な命令を受け取ってい
た。それは伊達興宗伯に私たちを自宅で待ち受けるよう伝
達しろという命令だった。伊達家は日本の最大の封建門閥
の一つである。何世紀かにわたって伊達一族は北日本の広
大な土地を領有したが、その領地は太平洋岸から日本海岸
におよび、領民が伊達家にもたらした富は莫大なものであ
った。17代前の有名な領主伊達正宗は、主権者の命令に
公然と反抗してカソリックの信仰の奥義を学ばせるために
家臣の一人をローマに派遣した。他の封建諸侯と同様伊達
家も今から約80年前に衰運への途をたどり始めることに
なった。が、年寄や県の役人たちはこの宮城県全体がかつ
て伊達家の領地であったことを敬虔にもまだ記憶している。
 知事の秘書に案内されて、私たちは伊達伯の気持のよい
邸宅に向った。雪の中で軍隊靴を脱ぎ、居間に通された。
伯爵は待ち受けていた、−−45、6の男で、まるでい
たずらを少々やり過ぎたいたずらっ児のような顔付きをし
ていた。彼の椅子のうしろにはやせた姿勢の正しい老人が
立っていた。皮膚の引き締ったエジプトのミイラのように
年の程の知れぬ容貌の男だった。
 私たちは伊達家の所有する土地について2、3質問した。
彼はうしろに立っていた男を指さして、
「これは私の『家令』です。家事一切を取り計っています
から、財政上の問題についてのご質問はみんなこの男から
お答えいたさせます。」
 暫時ベリガンも私も伯爵のことはまったく忘れてしまっ
ていた。この老人は過去4世紀間伊達家のために戦いかつ
仕えた家柄の末裔だそうだが、すこぶるいかめしい顔付で
自分を語り、笑顔を見せたのはただの一度だけだった。そ
れは、
「私の父の刀は貴国のセオドア・ルーズヴェルト大統領に
献じられました。」
とかたったときだけだったが、その微笑もたちまち消え去
り、羊皮紙のような顔面皮膚はまた平滑に返った。

 私たちは伯爵と2時間あまりも話した。その質問の大部
分は、敗戦国でなければ持ち出されえないようなものだっ
た。しかし、伊達伯は私たちの質問をことごとく快く受け
取り、その老人が委細にわたって説明した。伊達伯は今な
お彼のために耕作する二百家族の小作者をもっていること
も判明した。今年の農地からの収入は米貨に換算すると約
一万一千ドルに達する見込みだということであった。戦時
中は、航空機の車輪を製造する工場を持っていたが、今で
はこの工場は農機具を生産している。
 伊達伯は、来春の飢餓説には疑問を持っていたが、知事
のすすめにしたがって魚肉や樹皮や枯葉や泥を原料とする
パンをつくる工場の建設を計画している。「いやまんざら
の味じゃあありませんよ。ちょうど黒パンのような味で
ね。」と彼は言った。私たちは彼と知事は親友であること
を知った。
 伯爵はさらにつづけて、目下のところ自分の耕地で使用
するためトラクターの購入をマックアーサー元帥に申請中
だといった。
「日本でも機械化農業を実現できますよ」
 私たちはちょっと意表をつかれたので、「どうしてそん
なことをご承知なのですか」とややせきこんで質問したが、
この結果彼は東京農業大学の出身であることを知った。彼
はさらに、農地改革にも小作人への低利金融にも賛成だと
つけ加えた。「私自身も小作人たちに金融してやっていま
すよ。利率は、えーと、・・・彼は口ごもって、うしろの
老人を顧みた。
「年1割から3割です」とくだんの家臣は答えた。
 会見の正式部分はこれをもって終了した。私たちは部屋
の中を歩き廻り、貴重な象牙や真鍮の像を嘆賞した。暖か
い酒が運びこまれ、やがて伯爵は伊達家三十二代にわたっ
て蒐集され、その一部は現在この家屋内に保存されている
家宝の数々について大声で滔々と説明し始めた。伯爵はし
きりに昼飯を食べていくようにすすめたが、私たちは極力
固辞した。辞去しようとすると、くだんの老人はどこかへ
姿を消し、間もなく私とベリガンのために2つの小箱をも
ってあらわれた。私は、私たちを取り巻く値も知れぬ古美
術品と、いかなる日本人からもけっして贈物は受けまいと
いう私の決心とをあらためて思い出し、その小箱を伊達伯
の手の中へ押し戻した。しかし伯爵は私たちの来訪の記念
だからと頑強に言い張るので、とうとう少しばかばかしく
もなってきて、ありがたく頂戴におよびふんだんに感謝の
言葉を述べた。
 自動車で街なかへ出ると私はもう好奇心のとりこだった。
注意深く箱を開けて小さな人形を取り出した。知事の秘書
氏は、その人形を嘆賞おくあたわざる面持ちで眺めていた
が、「素晴しいものです。これはたいへん貴重なものに相
違ありません。伊達家の人形は有名で、みんな貴重きわま
るものです」
と言った。
 赤い着物を着たその人形は実際美しかった。私はなにげ
なくひっくり返して人形の底を見た。そして伯爵が正札を
はがし忘れていたのを知った。その正札には大きな活字体
で、「金一円」(6セント)と書いてあった。

晩飯は、パイ・ア・ラ・モードまで出る素晴しいご馳走だ
った。それより素晴しかったのは、食卓をにぎわした会話
だった。食後ドーン准将はこれから先の日程の作成を手伝
ってくれた。ベリガンは明日鹿狩りに行く、それからドー
ンやスウルと一緒に東京へ帰る。クリスマスのフットボー
ル試合を見なければ、というのだ。私は通訳のジョージと
2人きりで旅行を続ける。しかしドーン准将は私の行く先
先へ宿泊や交通の便を図るよう、詳細な指令を出してくれ
た。明日は日本を東西に横断するローカル列車に乗って酒
田という町へ行く。酒田からさらに北上して、酒田よりは
るかに大きい秋田という都会への行くつもりだが、もっと
北のほうの小さな町や部落も訪れてみたいと思っている。

12月24日 酒田への途中で
 たった4時間眠っただけで、6時半には起された。まだ
真暗だった。ひげをそり手荷物をまとめ、ジョージと私を
仙台駅まで運んでくれるジープに乗るため階下へ下りて行
ったが、実のところ、この寒空を考えると少し情けなかっ
た。ところが、ドーン准将が乗用車の中で待っていてくれ
た。おかげで快適な乗用車の人となったうえ、彼の日本観
をきくことができた。彼の感じでは、ほとんど変化は認め
られず、日本の役人どもは、われわれはもうじき引き揚げ
るし、そうすればもとの人たちや旧制度が復活することを
十分承知して、表面的には協力的な態度以外の何物も示さ
ないというのだった。
 ドーンの司令部の通ずる大通りに出たときには、発車ま
でに3分しかなかった。ドーンは車を止めて、自分は司令
部まで歩いていくから急いで駅まで行くように、と運転手
に命じた。そこで警笛を鳴らしつづけブレーキをきしませ
ながら、何百人ものGIが将官の車に敬礼する中を驀進し
て行った。駅について車から飛び出そうとすると、運転手
がサンドウィッチの大きな包みを渡した。
「准将と料理長からのお土産です」
 一分送れてジョージの乗ったジープが唸り声をたてて着
き、かすかすのところで汽車に間に合った。
.....(以下 省略)