「宮城県史16巻 観光」より抜粋

ニューパークホテル
観光国策遂行の中央機関として国際観光局が設置され、同時に外郭団体たる国際観光協会を設置し、
ニューヨーク、パリ、ロンドン等の海外事業所の活動と相俟って宣伝誘致の実際業務を掌らしめ、
他面、ジャパンツーリストビューローは旅客の斡旋接遇に当るなど、観光日本の魅惑は年毎に外来客
の増加を見たのであるが、昭和七年国際観光委員会によって松島、仙台地方が国際観光地点に指定
されて以来、松島に憧れる外人客は相当数に達し、在来のパークホテルのみでは狭隘をかこつように
なって、現に昭和十年十月来県の豪州女学生団一行35名は日本旅館に収容するのやむなきに至った
状態であった。この現状に直面した県は百年の大計と延び行く松島を洞察してより大なる収容力を
持つ洋式ホテル建設を決意、敷地に旧パークホテル隣接地を選び資金は国際観光ホテル新設資金の
大蔵省低利融資に依り、總予算四十六万五千円を以って昭和十二年十二月着工し、同十四年八月に
竣工した、間口50間、奥行20間、地上から屋根の頂上まで80尺、延建坪1400坪半。
一階は、玄関大広間50坪、大食堂60坪、喫煙室、事務室、遊戯室、浴室、化粧室、
二階は、大宴会場60坪、小宴会用和室、食堂。三階は客室で、旧パークホテルの四倍半にも当る
堂々たるもので、ニューパークホテルと命名。観光宮城の一異彩であったが、不幸半歳にして昭和
十五年一月二十二日烏有に帰したのは千秋の恨事であった。