なぜ、私がこのホームページを発行したかについての経緯です。

私が物心ついた頃、パークホテルの隣の動物園に行くのが最大の楽しみでした。
その頃の写真を「懐かしの松島動物園」の項に掲載しております。

その頃は、米軍の接収解除後に、宮城県から建物・敷地を「仙都観光」(現在のホテル一の坊)が
借りて、ホテルと動物園を経営していたようです。
動物としては、まず、入り口を入ったところに孔雀がいて羽を扇潟に開くのが人気でした。
レストハウス近くには、大きな檻の中にたくさんのニホンザルがおり、キャラメルが大好きで
親戚の子供が、キャラメルごと指をかまれて怪我をしたことがありました。
象が1〜2頭いて、食べ物をやったとき器用に鼻で受け取り食べるに感心したものです。
豆汽車の線路の奥には、水鳥がたくさんいて、おしどりも文字通り雌雄仲良くならんでいました。
ライオンやトラもいましたが、ときどき吼えるときがあり、前を通るときドキドキしたものです。

当時、まったくの田舎町だった松島で、パークホテル近辺は、都会的な香りがする特別の場所でした。
松の木々と白い柵で囲まれたホテルの敷地には芝生が広がり、藤棚などもあり、別世界の感じでした。
また道路側の入口には、お盆とナプキンを持った白い服のボーイの看板があり、客招きをしていました。

小学5年生のころ、パークホテルの敷地内に入り、建物を丸一日写生する機会がありました。
外観は和風のはずですが、スレート葺屋根と松島では珍しかった3階建のせいで独特の雰囲気がありました。
柱は元々素木造りでしたが、米軍が黒く塗装したため、イギリスやドイツ風の木造建築のように見えました。

2階(実質3階)の客室の窓外には朱塗りの勾欄がめぐらされ、いかにも貴賓館といった雰囲気でした。
海側正面に回ると中央に塔が聳え立ち、敷地より一段高いテラスへ昇るゆるやかな斜路が見えました。
写生に来た小学生の目にはとてもまぶしく映りました。館内に入らず仕舞いとなったことは残念です。
私の書いた絵は、他の小学校に先生が貸したとの事で、手元に戻ってきませんでした。残っていれば水彩で色がわかるんですが。

亡き祖父の家の欄間にかかる絵にパークホテルが描かれていた事も強い憧憬を感じる原因と思います。

こんなホテルがあるから、松島も都会の部類だ。などと胸のなかでは誇らしく思っていたものでした。

高校入試の日の未明、サイレンで目を覚まし、松島海岸方向が真っ赤に煙っており大火事と感じました。
その朝、仙台に向う電車の中から無残にも崩れ落ちそうになっている姿を見て愕然としました。

火災からしばらくしてから、父所有の空き地に黒焦げになった建物の太い柱がなぜか数本放置されており、
仕方がないのでその柱を風呂の薪として処分したのですが、後になって思えば、誰かが持ち出して仮置きしていた
パークホテルの残骸だったかもしれません。
結果的にはパークホテルで我が家のお風呂を沸かしたとは、申し訳ないような気持ちです。

社会人になってから、旅行の際に訪れた古いホテルが今でもりっぱに営業しており一つの観光名所になっていることに
不思議な感覚を覚えました。まるで、数十年あるいは100年以上前の空間がずっと同じホテルとして営業しているという
時空の連続性にぞくぞくしました。たとえば、横浜のホテル・ニューグランド、シンガポールのグッドウッドパークホテル、 ラッフルズ・ホテルなどは、古き良き時代を偲ばせ、ちょっとした観光名所になっています。
そんなときに、そういうホテルがわが町にも、かつては存在したことを思い出しました。それは松島パークホテルです。
このホテルをよみがえらせたら、と思うといてもたってもいられない感じがしてきました。
しかしながら、すぐには情報がどこにあるかも知らず、松島町史にある1、2枚の写真を眺め、「設計者ドイツ人レツル」とは
どのような人物であろうと思いをめぐらせ、辞典などで調べようとしましたが、何も情報を得られないままでした。

そうこうしながら、宮城県立図書館にかよったり、書籍、古本でさがしたりしながら、建物の様子が少しづつわかってきました。
例によって書店で建築関係の書籍をあさっていたある日、藤森照信氏の「建築探偵神出鬼没」(1990年)を見つけ、
実は広島原爆ドームと松島パークホテルがつながっていて、設計者がチェコ人のヤン・レツルという記述に気がつきました。
驚きました。松島パークホテルと原爆ドームがつながっていたのです。妻にそのことを話しました。

ある日に、妻がTVの番組表を見て教えてくれました。特別番組でNHK製作の「ヤン・レツル物語」(1991年)の記事が
あり、早速番組をを見て、おどろきました。事実とは若干異なり、佐々木昭一郎氏によるドラマですが、その中で建築写真展示会
で「川崎」なる登場人物が「松島パークホテルはヤン・レツル先生の傑作です。」などと、ヤン・レツルを持ち上げる場面があり、
そのあと、広島県知事の寺田祐之と会談し、広島県産業奨励館の建築を依頼するというシーンがありました。
そのとき、広島県知事の寺田祐之氏がなぜレツルを呼んだのかは後になって、再び図書館を訪れわかりました。

それは宮城県が対象4年に発行した「松島公園経営報告書」です。驚くことに当時の宮城県知事が寺田祐之氏だったのです。
この本には、松島公園とは七ヶ浜、塩釜、松島、鳴瀬と松島湾の島々を含んだ一大観光化計画で、そのシンボルが松島パークホテル
だったことを明確に記述しています。つまり後に原爆ドームとなる広島県商品陳列所(広島県産業奨励館)は、松島パークホテルの
成功によって、その設計者のヤン・レツルを広島県知事となった寺田祐之が呼び寄せて、設計させたものと推定できました。
こうして謎が少しづつ解けていきました。

これまで、松島パークホテルを充分研究した人はいないらしく、宮城県史の中の「観光史」や「建築史」で取り上げている記述にも
レツルの出自の誤りがありました。国籍は第一次世界大戦以前の国籍のままオーストリアとなっておりました。
これに対して、原爆の被害にあった広島市では、原爆ドームを研究するという観点で調査が行われ、謎の多いヤン・レツル
が次第に明らかになり、チェコ人であったこと、1907年に来日しドイツ人建築家デラランデの事務所に一時所属した事、
1909年に同郷のヤン・カレル・ホラと合資会社の建築設計事務所を作り活躍した事などが明らかになっていったようです。
これらの研究は広島市平和記念資料館の菊楽忍さんや東京大学工学部教授の藤森照信さん他のご努力によるものです。

最近、東京都小平市の吉澤゚子さんが、15年の調査の中で、広島県産業奨励館の設計を請け負った、レツル・アンド・ホラ
建築設計及工業事務所合資会社の営業担当役員だったホラの婦人の福という日本女性の足取りを「フク・ホロバーの生涯を追って」
という作品にまとめたことを知りました。私はすぐさま本を発注して、むさぼるように読みました。
この本によって、松島パークホテルの設計を担当していた頃のヤン・レツルやヤン・カレル・ホラの生活もわかってきました。

このまま、松島パークホテルやヤン・レツルの詳細な情報は結局わからないのではと、思ったこともありましたが、
先駆的な研究者の方々のお陰で非常に良くわかるようになってきた事は、本当にありがたいことと思っております。

2001年の年末で時間がとれたので、これまで調べたものをまとめるために、2002年の元旦より掲示開始しました。
その後、私のホームページにリンクをしていただける協力者の方も現れ、貴重な情報もたくさんいただきました。
これらの協力者の皆様には心から感謝を申し上げたいと存じます。
仙台市立工業高等学校の斎藤広道さんからは、戦前のパークホテル前での卒業記念写真の画像をいただき、そのほかたくさんの
近代建築関連の情報を提供していただきました。

「フク・ホロバーの生涯を追って」の作者である吉澤゚子さんには、連絡を取ったところ快く面会に応じていただき、
昔、松島パークホテルの本店でもあった東京駅のステーションホテル近くの戸外の植え込みに腰をかけて、いろいろな
貴重な資料を貸していただきました。吉澤さんからは、その後いろいろな情報をいただき、心強い味方のように思っています。

日本テレビのディレクターの平尾さんとアシスタント・ディレクターの成田さんは2002年12月26日の全国放送
「おもいッきりテレビ」の「今日は何の日」コーナーでヤン・レツルの逝去日を取り上げ、その中で松島パークホテル
と広島原爆ドームとの関係をいままでにないほど明確にして映像を製作されました。私のサイトもご参考にいただいと
いうことで後日、そのビデオを送っていただきました。このようなまとまった映像はなかなか貴重なものです。

地元の仙台や松島でも、力強い味方がしだいに現れてきました。ここに書くのはほんの一部です。

ホームページを開始直後、松島の佐藤新聞店さんが発行されているミニコミ誌ぶんぶんにも記事を掲載していただきました。

仙台市立工業高等学校の斎藤広道さんからは、戦前のパークホテル前での卒業記念写真の画像をいただき、そのほかたくさんの
近代建築関連の情報を提供していただきました。
仙台市の建築デザイン会社を経営されている遠藤隆夫さんは、バーチャルの世界で松島パークホテルを再現する協力をかって出られ
日夜大変な作業をされておられます。

産経新聞の塩釜通信局の菱沼さんには、12月28日に宮城版の記事として、松島パークホテルの再建の運動について
熱のこもった文章を書いていただきました。新聞に取り上げられるのはこれがはじめてでした。
かなりの反響があり、貴重な情報や協力の申し出も出てきています。
菱沼さんは次に続くより大きい記事を書いていくとの事です。

河北新報の特報部記者の武田さんには、1月28日に夕刊の裏面トップにほとんど1面を使い松島パークホテルの再建の運動
を大きく紹介していただきました。この記事も大変な反響があり、特に年配の方々から熱い思いのこもった電話をいただき、
やはり、松島パークホテルという建物は、歴史に残るべき建物だったことを確信しました。

このウェブサイトをはじめるにあたって、できれば、復元運動みたいなものを仕掛けられればと思っていましたが、
知人の少ない私にそんな事が本当にできるのか全く当てはありませんでした。しかし、公開後1年を経過した今、
どんどん協力者、友人が増え、もしかしてという気持ちになり、ひょっとしたらという気持ちになりつつあります。
私は、単純にあの松島パークホテルが好きでした。でも考えてみるとあの建物にはそれ以上の力があり、再現すれば
単なる観光資源にとどまらず、地域に住むわれわれの心のよりどころ、誇りになるような気がしています。
再建にはお金がかかりますが、建物はそんなに大きいものではなく、再建が不可能な金額では決してありません。
多分それによってもたらされる効果は再建費用を補って余りあるものとなるでしょう。

なぜ、松島は著名な観光地であるにかかわらず日帰り客中心でありリピート客が少ないかという事がよく言われます。
それは、素直に考えると、泊まりの観光地としては、「魅力不足」ということにつきると思います。
その原因はいろいろありますが、流れてくるお客さんを待っているだけの姿勢が多いこともあるでしょう。
松島から、島巡りや、瑞巌寺や五大堂などをないものとして、どうするのか知恵を出す必要があります。
それからどうするのか。
観光資源の少ない地域が知恵を絞ってやっていることを学ぶのも一つの手です。
それは、地域性や地域特有の歴史の事実を再認識し、そこから埋もれた宝物を発掘することではないでしょうか。

松島には、縁がないものを強引に引っ張ってくれば、それはお金がかかるだけではなく松島の破壊になります。

ここでBONCHANの提案ですが、明治、大正、昭和の歴史にスポットをあてたらいかがでしょうか。
松島パークホテルはこの中ではシンボル的な要素です。
夜になったら、そぞろ歩いてみたいような光の演出もほしいですね。

さて、白い帆掛け舟、白鴎楼、松島観光ホテル、旧公園管理事務所、旧松島郵便局、高城町の古い商家、初原の旧松島駅と
謎の三階建の「お城」、もちろん明治潜穴もあるでしょう。各所に点在する農業倉庫、西の浜の古い洋館、「松島電車」
(宮城県で最初に電車が走ったところはどこでしょうか?)
さらに、人力車、乗り合いバス、蒸気機関車、宮城電鉄、昔風の木造船、芝居小屋、映画館の賑わい、三輪トラック....
BONCHANの趣味的要素が濃くなりましたが、現代人が失った風景を呼び覚ますのも味があっていいのではないでしょうか

あ、あ、そうだ、松島海岸のコンクリートのお店を壊して木造瓦葺の2階ないし高くても3階建てに変えてしまいましょう。
そうだ、そして、国道45号線に大きな岩を置いて、トラックを通せんぼしましょう。

だんだんトワイライトゾーンに引き込まれそうになるので、この辺で終わります。