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松島パークホテル物語


松島パークホテルのホームページへようこそ、おいでくださいました。

このホテルは旧広島産業奨励館(原爆ドーム)の設計者であるチェコ(注)出身の建築家で
東京・横浜を中心にホテル、学校、個人邸宅などの分野で活躍していた建築家、ヤン・レツル氏
Jan Letzel(注)が設計し、大正2年8月15日より営業を開始した東北初の リゾートホテルです。
(注)レツルの肖像の出典: JAN LETZEL ARCHITECT OF THE A-BOMB DOMEより。

当時プロジェクトを推進した宮城県知事は寺田祐之氏でしたが、この時の縁により、
宮城県での任期後、大正2年2月に赴任した広島県で、知事として、広島県産業奨励館プロジェクト
を監督することになった際に、ヤン・レツル氏を東京から呼び出して起用することになったようです。
松島パークホテルは広島県産業奨励館(原爆ドーム)の雰囲気的には「お姉さん」になる訳です。
残念な事に、この松島パークホテルは昭和44年3月2日夜出火し焼失してしまいました。
和風と洋風が融合したデザインは見事であり、また宮城県内では外国人設計の近代建築は珍しく、
レツルの設計では、国内で残存していた唯一の建物だったので、失われた事は大変惜しまれます。

松島パークホテルは、当時の水準では超豪華な建物で、宮城県の貴賓館とも言える建物でした。
外観は杉・松・栗材による素木(しらき)造りで、外国人の日本趣味をくすぐる伝統的な和風様式でしたが、
(訂正:以前は桧材と書きましたが誤りでした。松島の杉・松、黒川郡の栗の良材が使われたようです。)
海に向って90度に両翼を広げた建築プランは欧州の別荘建築で見られるバタフライ・スタイルで
内部はウィーン発のSECESSION(分離派)流デザインを取り入れた最先端の洋風建築でした。
戦前は、東京築地の精養軒(関東大震災以後は上野が本店)が宮城県より建物を借り受ける形で
精養軒・松島支店として営業していました。
(注)ヤン・レツルの出身については諸説あり、宮城県の資料ではオーストリア人、昭和35年の松島町誌では
ドイツ人と記述されていますが、これは、チェコが第一次世界大戦前はオーストリアハンガリー帝国領で
あったことや一時期にナチスドイツの占領下に置かれた事があったためと思われます。彼の本当の出身地は、
当時はボヘミアと呼ばれていた現在のチェコ北部のポーランド国境に近い小都市ナホトです。


それではしばしの間、幻のホテル、Matsushima Park Hotel の探検をお楽しみください。

トピックス 建設当時の詳細な資料


宮城県公文書館には、パークホテル建築当時の記録文書が保管されています。
パークホテル関連の予算、用材の調達、電話架線、工事設計書、入札資料、各種書簡、工費全容などが、
生々しい筆跡で残っています。紙が古く非常にデリケートで、おそるおそる拝見させていただきました。
中にはホテル設計に深く関与した精養軒やレツル・アンド・ホラ設計事務所からの連絡書簡もあります。

松島パークホテルの建設を請け負ったのは、仙台市材木町の建築業者、庄治利兵衛でした。
低圧蒸気式暖房装置、水洗トイレ、バスタブ、鋳鉄製の下水管などは外国製で横浜経由で運ばれた様です。
大工として渡欧した最初の日本人で、宮城県の建築技師となった、山添喜三郎の書いた書類もあります。
これらの文書に残る生々しい筆跡をみると、約90年の年月の隔たりを超えて、当時の関係者達の情熱と思い
が直接伝わってくるようです。


宮城県公文書館で保管されている明治44年〜45年(大正元年)の資料(一部)
レツルの事務所の封筒

宮城県庁技術師 山添喜三郎氏起案の予算計上書

山添喜三郎氏が工事・設計について細かく関与していたことを示す精養軒社主北村重昌氏からの手紙

敷地の土盛り工事設計書

黒川郡大谷村(現・大郷町大谷)の栗材の伐採着手・手配に関する報告書(明治44年11月10日)

富山(松島町内の北東の山)の杉材の伐採および現場での大扮挽作業の状況報告(明治44年11月19日)

黒川郡大谷村(現・大郷町大谷)からの栗材の伐採および運搬作業の終了報告(明治44年12月27日)

長老坂(現・松島海岸駅の西側街道筋の丘陵)から伐採した坑木用松材の運搬報告(明治45年2月23日)


最近発見された暖房工事用の詳細平面図 (大正1年の工事資料より)



大正4年3月発行松島公園経営報告書より



県設ホテルの記述部分

パークホテル其一(正面)
建坪百弐十坪余にして地階共三層塔屋は更に二層を増し
外観日本式素木造斗拱組み勾欄及濡縁付入口と窓額縁は
火燈形にして入母屋造望楼屋頂に避雷針付九輪を装置す


パークホテル其二(側面)
(地階)
ボーイ室   四  倉   庫 一  貯 蔵 室 一
厨房室    一  調 理 室 一  暖 房 室 一
食物貯蔵庫 一  浴   室 一  便   所 三


パークホテル其三(裏面)
二階 寝 室 十 四
三階 寝 室 展 望 室
四階 展 望 室


パークホテル其四(食堂)
食堂は大小二室あり床は槻、樫地材の寄木張りとし天井は
鋼鉄打出し板張り「ペンキ」塗にして能く七十人を容るべし


パークホテル其五(寝室)
各室共内部漆喰塗り外部淡黄色漆喰塗りとし冷温水を室内に
導き寒熱共に酷烈の気候に室内の空気を温冷ならしむる設備
と為せり寝室の数十四にして二十四人を容るべく外に展望室
あり

パークホテル其六(読書室)
パークホテル其七(玉突場)
パークホテル其八(厨房)
植物温室
パークホテル敷地の北隅に在り梁間一間半桁行二軒の木造平屋 建なり

これが原型?ベルリンのフロイデンベルグ邸(E.ムテジュウス設計 1908年)



パークホテル建築図


パークホテル四階平面図
パークホテル三階平面図
パークホテル二階寝室平面図
パークホテル二階天井平面図
パークホテル一階平面図
パークホテル一階天井平面図
パークホテル地下室平面図
パークホテル建築基礎之図
パークホテル建築正面図
パークホテル建築配置図



在りし日のパークホテル


パークホテルの建築の検分のため、松島に訪れたヤン・レツル(白鴎楼の庭園にて 明治45年(1912年)5月27日)

後列左よりヤン・レツル氏、宮城県知事の寺田祐之氏、精養軒主・北村重昌氏、前列左より宮城県技師の馬場得技氏と山添喜三郎氏

(注)上写真の出典:

広島平和記念資料館 菊楽忍様のサイト JAN LETZEL ARCHITECT OF THE A-BOMB DOMEより。

今もその場所に同じようなあずまやがまだ残っている。(2003年12月松島海岸・観月楼物産店様のご好意により撮影)


歴史写真第11月号より(大正2年11月 東京・歴史写真会発行)
大正2年8月15日に竣工したパークホテル
大正2年9月20日の松島公園開園会

大正2年刊行「松島大観」(東陽堂印刷部)のイラスト
パークホテルとモダンボーイ・モダンガール
(この写真は必要に応じ縦スクロールして見て下さい。)

戦前、仙台工業学校(現在は仙台工業高等学校)では、卒業時に、仲間たちと県内の景勝地に出かけ、記念写真を撮るのが慣しだったようです。
仙台工業学校学生とパークホテル(大正11年 金工科)
仙台工業学校学生とパークホテル(昭和15年 建築科)
(以上の写真2葉:仙台工業高等学校建築科 斎藤先生提供)

豪州からの女学生一行(昭和10年)
米国からの教育視察団(昭和12年)
世界教育視察団(昭和12年)

パークホテルは我が家だった。....パークホテルで生まれた男性にインタビュー
松島パークホテルは我が家だった

米とカナダからの女教員一行とニューパークホテル(昭和14年)
ニューパークホテルは、昭和14年に予定されていた、東京オリンピック招致に伴う外国人客向けホテル
として昭和14年8月に営業を開始したが、東京オリンピックは世界情勢の変化により、急遽中止となり、
ニューパークホテルは、翌年の昭和15年1月22日の失火によって、はかなくも焼失した。
基本設計は、伊東市の川奈ホテルや東京の現在の帝国ホテルなどを設計した高橋貞太郎氏が担当し、
実施設計は、日本の伝統的数寄屋建築の近代的解釈知られる吉田五十八氏が担当しており、日本でも
トップレベルの近代的ホテルであった。その規模やデザインは、現代的で戦前あった建物とは思えない。

ニューパークホテルの全景(小川澄夫氏著 ふるさとの昭和時代 塩釜・松島 より)

宮城県史16巻「観光」 ニューパークホテルの段

新・旧のパークホテルが並んだ
うっすらと雪化粧したニューパークホテル(1)
うっすらと雪化粧したニューパークホテル(2)
うっすらと雪化粧したニューパークホテル(3)
うっすらと雪化粧したニューパークホテル(4)
これがニューパークホテルが迎える最初で最後の冬という事は誰が予想していただろうか。



戦前の松島風景


古き良き日の松島の美しい写真
(株)白松がモナカ本舗ご提供写真

福浦橋(1)
福浦橋(2)
松島のパノラマビュー
霞ヶ浦(松島海岸駅の仙台寄り)の宮城電鉄(現・仙石線)沿いの桜並木

高城町写真集
高城町は松島海岸より北東に2km(仙石線で1駅隣)で、松島町の中央部にあたる。


戦時中の松島風景

パークホテルは海軍工廠第3会議所として使用されていた。

国防婦人会による松島海岸の清掃行事

戦中笑顔あり



太平洋戦争後


敗戦後、パークホテルは仙台方面に進駐した米軍に即ちに接収され、 米第11空挺師団(司令官ドーン准将)の司令官達の宿舎として昭和26年まで 使用された。素木の柱や漆喰壁はペイントで塗装され、南端のパーラーには暖炉が設けられた。
マークゲイン著「ニッポン日記」上の記述
米軍の接収が解除されたパークホテル(A.W. Lincoln氏撮影)
米軍が、取り付けた暖炉の煙突が珍妙である。

仙台駐留の元米軍兵士 Mr. A.W. Lincoln氏の写真館にもパークホテルの写真がある。

塔屋の屋根上の相輪(九輪)は失われている。(戦時中?に屋根に火災が発生したためという話を最近耳にした。)

パークホテルがあったころの松島海岸通り(昭和35年発行の松島町誌より)

ご学友と遊覧ボートに御乗船される皇太子殿下(現在の天皇陛下)
(昭和26年10月学習院の修学旅行の際。ご宿泊先は松島観光ホテルでした(写真提供 松島町 菅野酒店さん)

1954年から1955年に仙台に駐留していた元米軍兵士 Mr. A.W. Lincoln氏が撮影した松島風景とパークホテル
Sendai-shi.com

Lincolnさんの個人サイト

昭和30年4月 全国国土緑化大会(小川澄夫氏著 ふるさとの昭和時代 塩釜・松島 より)
松島海岸に集まった群衆の歓迎にお応えになる天皇・皇后両陛下
昭和天皇陛下と皇后陛下はパークホテルに3泊されました。(写真提供 松島町 菅野酒店さん)
昭和天皇陛下・皇后陛下の御到着
天皇皇后両陛下のご来松を歓迎する人たち
婦人会の踊り(1)
婦人会の踊り(2)
歓迎式典後の記念写真
当時の町長伊藤氏と婦人会役員
パークホテル前の広場では「大漁唄い込み」、「松島勝凱」、「松島甚句」が演じられた。
天皇陛下はパークホテルの塔屋にたたずまれ、松島湾上に昇る月をしばし観賞されたという

天皇陛下の御歌「松島にて」
春の夜の 月の光に見渡せば
浦の島々 波にかげさす


パークホテルの前庭で
多賀城市の佐藤さんからご提供いただいた写真画像

戦後、ホテルとして営業を再開していた頃の姿(昭和35年発行の松島町誌より)
米軍が取り付けた暖炉用の煙突は取り外され、若干ながら本来の姿に近くなった。
松島パークホテルの想い出の夏

貴重なカラースライドによる画像



パークホテルのパンフレット


戦前の珍しいパンフレット
オーストラリア、アメリカ、松島町内で発見されたパンフレットです。
パークホテルの華やかだった頃の雰囲気が伝わってきます。

大正時代のパークホテルの食事メニュー (仙台市在住の渡邊慎也さん所蔵)


当時の精養軒によるメニューで大変豪華な食事が提供されました。

昭和30年代のパークホテルの食事メニュー (プチホテルびすとろアバロンさん提供)
昭和30年代のパークホテルの食事メニュー


昭和30年代の状況


昭和38年の日本交通公社の旅行案内「東北」の旅館一覧より

電話番号103
交通松島海岸駅から徒歩5分
松島海岸略図とパークホテル
室数洋13
人員26
宿泊料1200〜4000
米軍の接収解除後は、仙都国際観光株式会社がホテル経営を引き継いだ。
その後、隣地にオープンした松島動物園も同社による経営だった。

お宝写真:元支配人提供の内部写真

エッセイ:セピア色の想い出

パークホテル近辺にあったレジャー施設

松島動物園(跡地はグリーンパークと呼ばれる公園になっている)



松島動物園風景

水族館(現在もマリンピア松島として存続している)

昔の松島水族館


昭和30年?ころの松島観光協会の観光パンフレット

観光パンフレット(1)/ 観光パンフレット(2)/ 観光パンフレット(3)/ 観光パンフレット(4)/



パークホテルの焼失後の姿


その日、松島の人たちはこの姿を見て、自分の身内を失ったようにも感じたことだろう。
焼け落ちたパークホテルの塔
昭和44年3月2日の午後11時に出火し、翌日の午前3時半まで燃えつづけた。
火元は地階ボイラー室で、長年にわたり密かに炭化が進んでいた部材から発火したものと思われる



解体工事


パークホテルは、昭和44年3月に「焼失?」しましたが、解体されるまで建物の半分以上が残っていました。
完全に姿を消したのは昭和44年7月末です。公文書館で見つかった解体工事写真を今見ると、何故、そのとき
解体してしまったのか、修繕できたはずではないのか、、今、思えば大変悔やまれる事で、重ね重ね残念です。
無残な写真ですが、根気よく分析すれば残存資料では分からない構造や往時の建築技術を窺い知ることができ、
将来、復元されるようなことがあれば、大変貴重な情報を提供してくれる資料となる事にちがいありません。

解体工事の資料および解体工事記録写真(50枚)
解体工事は昭和44年7月21日から開始され8月1日に完了し、更地になりました。



遺構・遺物


遺構としては跡地が公園化されたため、建物としては何も残っておりません。
グリーンパーク(元パークホテル敷地)で行われる「松島かき祭り」

懸魚

食器の一つ

子屋根の鬼瓦の断片とスレート瓦


銅製の柱飾り(最大径95mm)と高欄の座金(幅92mm・長さ113mm)

銅製の柱飾り(真横)


パークホテルの回想


随時、追加していきます。
パークホテルの回想

 

パークホテルの復元

パークホテル開業90年目の2003年に当サイト管理者の活動を支援してくれる有志とともに、9月に「松島パークホテル懐古展」を松島町で開催しました。そのイベントの前後に 多くの TV、新聞、ミニコミ誌で取り上げられました。
その反響は大きかったものの、現実的には、サイト管理者の個人的理由(脱サラ起業したため本業を優先せざるを得ない事)があり、長期的な組織活動として発展させるには至っていません。
しかしながら、約100年前のパークホテルの構想・建築着工から始まる先人達の熱意を後世に伝えたいとの思いは変わらず、現在も、僅かづつの時間ですが、すこしづつ明らかになってきた事実をジグソーパズルのように組み立てる作業は続けています。
建築物として復元するためには、資金や建築法規、運営方法などクリアしなければならない課題があります。
しかし、最新のIT技術を使用することにより、現物の復元より一足早く立体画像でその懐かしい優美な姿をご覧いただけます。

スケープデザイン株式会社(仙台市)が制作したパークホテルの復元画像

松島パークホテル3D復元


関連情報


ジョージ・バトラー氏のサイト

上記リンクのサイトに関連する河北新報の記事

以前の関連リンク集(すいません情報が古くなっています。リンク切れ等あります。)




最後に


このホームページは、松島パークホテルの在りし日を偲ぶメモアリアルとして製作しました。
約90年前、宮城県・松島を国際観光地にするための中心的な立役者であり、長年にわたり日本三景松島のシンボルだった
松島パークホテルが歴史的な重要建造物として、皆様方に再び思い起こされ、復元される日がくることを切に願います。

復元には、相当のお金がかかるため、地味であっても長期的な取り組みが必要と考えています。
再建に、ご興味のある、お金持ちの方が、おられましたら、ぜひご連絡下さい。

このサイトについて、ご意見、情報をいただければ幸いです。

松島パークホテル復元活動に対するご連絡はここをクリックしてください。


多くの皆様のご協力により、たくさんの貴重な情報や画像が寄せられました。
このサイトを公開したのは2002年の元旦ですが、当初と比べ物にならないほど詳細な情報が多数集まりました。
これまで、情報提供や写真提供などご協力をいただいた方、興味を示していただいた方に心より感謝申し上げます。
まだまだ、眠っている情報があるかと思いますので、内容の多少にかかわらず、ご一報いただければ幸いです。
松島パークホテルには、たくさんの物語が埋もれており、それらをできるだけ発掘したいものです。
サイト管理者としては、設計者ヤン・レツルの夢の軌跡を追うべく、彼の故国チェコに行くつもりですが、いつのことになるやら。

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